埼玉県久喜市に佇む甘棠院は、戦国時代の風雲児、足利政氏が晩年を過ごした地として知られています。永正16年(1519年)、第2代 古河公方 足利政氏は自らの館を寺に改め、甘棠院と名付けました。山号は永安山(えいあんざん)で、臨済宗円覚寺派に属しています。
足利政氏は、室町幕府の御家人であり、古河公方と呼ばれる関東地方の有力な守護大名でした。古河公方は、鎌倉公方足利基氏の子孫が、鎌倉から古河に移り住んで成立した系統です。政氏は、父・成氏を継いで古河公方となり、関東地方を舞台に激しい権力闘争を繰り広げました。
甘棠院は、古河公方(こがくぼう)第二代目 足利政氏(まさうじ)が、古河より久喜に移って隠居し、永正16年(1519年)に貞巌昌永和尚を開山として館を寺に改めました。境内には本堂のほか足利政氏の墓と伝えられる五輪塔(113センチメートル)があります。
久喜駅の西口から徒歩約15分のところに位置する「甘棠院」は、鎌倉にある臨済宗(りんざいしゅう)円覚寺(えんがくじ)派の寺院です。総門を入ると、中門前面から院の東西に100メートル、南北に250メートルの空堀がめぐらされ、北側には土塁(どるい)も築かれています。大正14年(1925)3月31日には「足利政氏館跡及び墓」として埼玉県指定史跡となっています。
足利政氏の父・成氏(しげうじ)は、宝徳元年(1449)に京都より招かれて鎌倉公方(くぼう)となりましたが、関東管領上杉氏と抗争ののち古河(茨城県古河市)に走って古河公方と称し、伊豆の堀越公方(足利政知(まさとも))、関東管領の山内(やまのうち)上杉氏、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏との勢力争いを続けました。鎌倉公方は、室町幕府の東国統治のための出先機関である鎌倉府の長で、関東管領は本来鎌倉公方を補佐する役目です。
足利政氏は、父の死後、明応6年(1497)古河公方となりましたが、その後、政氏の子である高基(たかもと)・義明(よしあき)と不和となり、小山(栃木県小山市)に移り、さらにここ甘棠院に隠居したと伝えられます。その後、永正16年(1519)館を寺院として永安山甘棠院と称し、子(一説には弟)を開山(かいさん)としました。
甘棠院の境内には「享禄四年七月十八日甘棠院殿吉山長公大禅定門」の銘を刻んだ足利政氏の五輪塔があります(享禄4年は1531年)。