鷲宮神社は、埼玉県久喜市鷲宮一丁目に所在する神社で、「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称されています。この神社は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神としています。
鷲宮神社の本社だけでなく、旧太田荘周辺には数多くの同名の分社が存在し、久喜市内にも下早見に2社、八甫に1社が鎮座しています。時には「武蔵国鷲宮神社」と呼ばれることもあります。
鷲宮神社は「関東最古の大社」とされ、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも度々登場し、関東の武士に崇敬されてきました。神社に伝わる「鷲宮催馬楽神楽」は国の重要無形民俗文化財に指定され、関東神楽の源流とされています。
神代の昔、天穂日命と武夷鳥命が東国を経営するため、出雲族と共に当地に到着し、大己貴命を祀ったのが鷲宮神社の始まりと伝えられています。その後、日本武尊が東国平定の際に戦勝祈願を行い、別宮を建てて天穂日命と武夷鳥命を祀ったと言われています。
別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が当地に移住し、先祖を祀ったのが起源とも言われています。「はにしのみや」が「わしのみや」に訛ったとされています。
また、伊予国一宮の大山祇神社の三嶋大明神が東征し、三島大明神は伊豆国一宮の三嶋大社に、鷲大明神は武蔵国太田庄の鷲宮神社に移り住んだとされています。
鷲宮神社は「関東最古の大社」を名乗っているものの、歴史資料に現れるのは『吾妻鏡』の建長3年(1251年)の記載が最初です。「関東最古」と称するようになった時期は不明ですが、遅くとも享保18年(1733年)には延喜式内社・前玉神社論社に比定されていました。明治以降、「前玉神社の論社」とは名乗らなくなりましたが、「関東最古」はそのまま残りました。
中世以降、鷲宮神社周辺の地域が将軍領・太田荘となり、関東の総社・関東鎮護の神社として東国の武家の崇敬を受けました。鎌倉時代から室町時代にかけては、藤原秀郷や新田義貞、関東管領の上杉氏などが幣帛の奉納や社殿の造営を行いました。
天正19年(1591年)、徳川家康が社領400石を寄進し、歴代の将軍も朱印状を発行して社領を安堵しました。江戸時代初期、徳川家光が日光東照宮を参拝した際、利根川渡河の警備に参加した大内氏は利根川に落水した家光を助け、その功により江戸城内での1万石の格式を与えられました。
現代では主祭神を以下の3柱、合祀祭神を以下の9柱としています。
鷲宮神社本殿
天穂日命(アメノホヒノミコト)
武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)
神崎神社本殿
大己貴命(オホナムヂノミコト)
建御名方神(タケミナカタノカミ)
伊邪那美神(イザナミノカミ)
大山祇神(オホヤマヅミノカミ)
宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)
大山咋神(オホヤマグヒノカミ)
天照大神(アマテラスオホミカミ)
迦具土神(カグヅチノカミ)
素戔嗚尊(スサノオノミコト)
菅原道真(スガワラノミチザネ)
鷲宮神社本殿(鷲大明神、鷲宮大明神)は、過去には以下のような祭神であったとされています。
鷲宮神社には以下の8件の文化財が指定されています。
太刀 銘備中国住人吉次
永和2年(1376年)に小山義政が奉納したもので、原品は東京国立博物館に寄託され、レプリカが久喜市立郷土資料館で展示されています。
鷲宮催馬楽神楽
鷲宮神社で奉演される「鷲宮催馬楽神楽」は、関東神楽の源流とされています。鎌倉時代の史書『吾妻鑑』に、建長3年(1251年)に鷲宮神社で神楽が行われたことが書かれています。1955年に「鷲宮神社神楽復興会」が組織され、神楽が伝承され、消滅の危機を乗り越えました。
鷲宮神社本殿
文化8年(1811年)に再建されました。木造銅板葺の流造りで、向拝一間、向拝軒唐破風造、正面軒唐破風造の装飾を有し、精巧な彫刻が施されています。社殿内には多くの文化財が保管されています。