埼玉県川口市にある長徳寺は、臨済宗建長寺派の寺院です。山号は大智山といいます。鎌倉時代から続く歴史を持ち、多くの文化財を有する古刹として知られています。
長徳寺は、1364年(貞治3年)に秀田等栄によって開基されました。秀田等栄は鎌倉公方 足利基氏のために寺を創建し、その後、基氏自身の祈願所となりました。
戦国時代には、岩付太田氏の保護を受け、江戸時代には寺領40石が与えられました。所属宗派の本山である建長寺とは「本山護持の寺」としての関係があり、当寺住職は建長寺に栄転することが多かったとされています。
天正10年(1582年)には、龍派禅珠(りゅうはぜんじゅ・号寒松)が住寺職となり、中興の祖とされました。この時期、寺は栄え、華やかな文化が花開きました。天正18年(1590年)には徳川家康により寺領40石が安堵され、以後、長徳寺は徳川家代々の保護を受け、建長寺派の四大柱の一つとして栄えました。
慶長年間には2度の火災に見舞われましたが、再建を助けたのは、当時芝村の代官であった熊沢忠勝でした。
長徳寺には、以下のような貴重な文化財があります:
長徳寺には、獅子頭3頭と神楽面10面が保存されています。獅子頭には、元禄11年(1698年)、宝永7年(1710年)、寛延元年(1748年)、明和元年(1764年)の修繕時の墨書銘があり、元禄11年以前に製作されたことがわかります。
『寒松日記』には、寛永7年(1630年)と寛永9年(1632年)の記述があり、毎年8月15日に八幡神社(鶴ヶ丸八幡神社)で獅子舞が奉納されたことが明らかにされています。この資料は、当時の寺と神社の関係や年中行事としての祭りの姿を伝える重要な資料です。
足利基氏は、室町幕府 初代将軍 足利尊氏の四男として生まれ、鎌倉公方として関東を治めた武将です。観応の擾乱という動乱の中で、幼いながらも鎌倉公方の座に就き、関東を統治しました。