埼玉県 » 大宮・浦和・鴻巣

武蔵一宮 氷川神社

(むさし いちのみや ひかわ じんじゃ)

大宮氷川神社とも呼ばれ、2000年以上の歴史を誇る氷川神社の総本社

埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社は、武蔵国の一宮として古くから信仰を集めてきた神社です。日本有数の古社で2000年以上の歴史を持ち、武蔵国の一宮として関東地方における神社信仰の中心地として、人々の暮らしに深く根付いています。

大宮の地名の由来ともなり、東京都と埼玉県周辺には約280社の氷川神社がありますが、その総本社がここ大宮の氷川神社です。初詣の時期には多くの参拝客で賑わいます。また、毎年5月には境内で大宮薪能が開催され、幽玄の世界を楽しむことができます。

氷川信仰と地域

氷川神社は、スサノオに対する神道の信仰である氷川信仰の中心地です。地名「大宮」は、この神社を「大いなる宮居」と称えたことに由来しています。氷川神社は、式内社(名神大社)であり、かつては官幣大社の地位を持ち、現在は神社本庁の別表神社に属しています。また、宮中の四方拝の対象となる神社の一つでもあります。

初詣の人気

氷川神社は埼玉県周辺から多くの参拝者を集め、正月三が日の初詣では全国でもトップ10に入る参拝者数を誇っています。

神社の立地と歴史的背景

氷川神社の境内は、かつて見沼と呼ばれる広大な沼の近くに位置しており、元々は見沼の水神を祀っていたと考えられています。神社の南側に広がる神池は、神社の西側から湧き出た地下水が溜まったものであり、かつては見沼の一部でした。

周辺の公園と自然

神社に隣接する埼玉県営大宮公園は、明治時代に神社周辺の森林を取得し整備されたものであり、神社がある小山を見沼の入江が囲んでいた地形の特徴をよく残しています。

三氷川神社

大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現在の中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、すべて見沼の近くに位置し、直線上に並んでいます。これらの「三氷川」と、かつて大宮の氷川神社境内に存在していた三社(男体社・女体社・簸王子社)はしばしば混同されますが、それぞれ別の神社です。

氷川参道

氷川参道は、さいたま新都心に近い吉敷町の県道164号鴻巣桶川さいたま線(旧中山道)から氷川神社まで約2 kmの表参道が南北に一直線に伸びています。

参道の特徴

参道にはケヤキ、シイ、エノキ、スギなど20種以上の樹木が600本以上植えられており、三つの大鳥居が配置されています。「一の鳥居」は旧中山道との分岐点に、「二の鳥居」は県道2号さいたま春日部線と交差する市立博物館の近くに、そして「三の鳥居」は境内入り口にあります。「二の鳥居」は明治神宮から移築されたもので、関東地方で最も大きな木造の鳥居として知られています。

平成ひろば

平成ひろばは氷川参道の一部を整備した公園で、ケヤキやサクラなどの木々が植えられ、石畳の歩道や組み合わせた岩で作られた小川があります。この公園は市民にとって憩いの場として親しまれています。

参道と社殿の配置

参道は南北に直線状に延びており、長さは2 kmですが、神社の拝殿と本殿は参道からやや西にずれて位置しており、また南北に対して約30度傾いています。境内に進むと、参道は左手に曲がりながら「神池」を橋で渡って拝殿に至ります。

社殿の歴史と建築様式

氷川神社の社殿は、1180年に源頼朝が土肥次朗実平に再建を命じ、1595年には徳川家康が伊奈備前守忠次を奉行として新たな社殿を建てました。その後、1667年には徳川幕府の四代将軍 徳川家綱が阿部豊後守を奉行として社殿を建立しました。

現在の社殿

現在の社殿は1940年に完成し、流造りと呼ばれる神社建築様式です。社殿の配置や建築様式は、紀元二千六百年を記念して造替されたもので、本殿、拝殿、舞殿、楼門、手水舎などが神社局造営課の設計によって建て替えられました。

広大な境内とその魅力

氷川神社の境内は大宮公園に隣接し、広大な敷地には約3万坪の広さがあります。古杉や老松が歴史を物語り、参道の長さは中山道の「一の鳥居」から約2kmです。「二の鳥居」は高さ13mで、明治神宮から寄贈され、木造の鳥居として関東地方で最も大きいと言われています。

境内の見どころ

境内には楼門、舞殿、神橋、神池などがあり、四季折々の美しい景色を楽しむことができます。また、境内には多くの摂社や末社もあり、それぞれの社殿や祭神に関する歴史や伝説が存在します。

主な行事

氷川神社では年間を通じて多くの行事が行われます。以下に主な行事を紹介します。

歴史

前史

社伝によれば、氷川神社は孝昭天皇3年4月に創建されました。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命が成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として氷川神社を奉崇したと伝えられています。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされています。社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説があります。

一方、氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていました。ここではアラハバキが「客人神」として祀られており、このアラハバキ社は氷川神社の地主神とされています。現在祀られている出雲系の神々は、武蔵国造一族とともにこの地にやってきたもので、先住の神がアラハバキと見られます。

さらに、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って氷川神社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説も残されています。このことから、本地域を「足立」と称するようになったとされています。

古代

平安時代前期に編纂された『日本三代実録』には「武蔵国氷川神」として神階授与の記載があります。数年の間に位が上がっていることから、氷川神社が朝廷から崇敬されていたことが分かります。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、名神大社に列し、朝廷からの月次祭と新嘗祭では官幣に預かっていました。

中世

平安時代後期、氷川神社は武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受けました。平貞盛が平将門の乱において氷川神社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に多くの分社が建てられました。治承4年(1180年)には源頼朝が土肥実平に命じて社殿を再建し、社領3000貫を寄進し、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納しました。

一宮・三宮に関する議論

氷川神社は「武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げていますが、武蔵国内における氷川神社の位置付けには一宮と三宮の2説があります。平安時代中期の『延喜式神名帳』では氷川神社は名神大社として記載されていますが、鎌倉時代の『吾妻鏡』には東京都多摩市に所在する小野神社が「多磨郡吉富に一宮」と記述されており、平安時代に社格の逆転があったと考えられます。

武蔵国総社である東京都府中市の大國魂神社(六所宮)では、南北朝時代に編纂された『神道集』を基に、武蔵国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っており、公式に「一宮」を小野神社、「三宮」を氷川神社としています。現在も大國魂神社の例大祭(くらやみ祭・武蔵国府祭)では、氷川神社の神官が「三宮」として参じています。

一方、室町時代後半に編纂された『大日本国一宮記』は氷川神社を一宮としています。室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したとする説もあります。これとは別に「氷川女躰宮」が一宮ともされています。

近世

徳川家康が関東に入ると、文禄5年(1596年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営しました。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていました。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していましたが、関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させました。これが現在に至る大宮の町となりました。

寛文7年(1667年)3月には阿部豊後守を奉行として社殿を建立しました。近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲しました。三社の祭神や順位を巡る論争もありましたが、1699年(元禄12年)に三社・三社家を同格とする裁定が下されました。

1833年(天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に基づき、現在の祭神が定められました。

近代以降

明治元年(1868年)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は氷川神社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めました。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行いました。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁の楽師による歌舞が奉納されます。1871年(明治4年)には近代社格制度において最高位の官幣大社に列格されました。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度親拝し、昭和天皇も皇太子時代の1917年(大正6年)11月12日、天皇に即位した1934年(昭和9年)11月18日に、それぞれ陸軍特別大演習の帰途に親拝し、1967年(昭和42年)10月には夫妻で参拝されました。明仁上皇も皇太子時代の1963年(昭和38年)9月に参拝し、1987年(昭和62年)7月と天皇に即位した1993年(平成5年)5月には夫妻で親拝しています。

明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村(現・さいたま市北区日進町二丁目)の万福寺へ退転しました。また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備されました。

1882年(明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに1940年(昭和15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になりました。また、1929年(昭和4年)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られました。招魂社は1939年(昭和14年)3月に分離して埼玉縣護國神社となり、同4月には国指定護国神社となりました。昭和15年には紀元二千六百年を記念して神社局造営課の設計により社殿建築の多くが建て替えられ、現在の社頭景観の多くがこのとき創出されました。

1966年(昭和41年)7月22日に明治神宮の大鳥居(第二鳥居〈木造鳥居では国内最大級〉)が落雷によって破損したため、新たな鳥居が1975年(昭和50年)に竣工しました。落雷した鳥居は移設され、1976年(昭和51年)4月5日に氷川神社に竣工されました。これが現在の二の鳥居で、旧さいたま市立大宮図書館の前にあります。このとき、もともとの石造の二の鳥居は大宮公園との境界へ移設されていましたが、東日本大震災で基礎が破損したため一旦撤去されました。その後、撤去した柱を新たに整備された摂社寄りの参道と公園との境界の標として再建されています。

1982年(昭和57年)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されています。

まとめ

氷川神社は、その長い歴史と深い信仰を背景に、多くの人々に愛され続けています。特に初詣や大宮薪能といった行事は、多くの参拝客や観光客を魅了し続けています。また、広大な境内や美しい自然環境も、訪れる人々に癒しと安らぎを提供しています。氷川神社は、日本の歴史と文化を感じることのできる重要な場所として、今後もその魅力を発信し続けるでしょう。

Information

名称
武蔵一宮 氷川神社
(むさし いちのみや ひかわ じんじゃ)
リンク
公式サイト
住所
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407
電話番号
048-641-0137
営業時間

楼門開閉時間     
3月~4月 5:30~17:30
5月~8月 5:00~18:00
9月~10月 5:30~17:30
11月~2月 6:00~17:00

アクセス

東武野田線 大宮公園駅から徒歩で15分
JR大宮駅東口から徒歩で20分

大宮・浦和・鴻巣

埼玉県