騎西城(私市城)は、かつて土塁や塀で囲まれた平屋の館でしたが、現在はその歴史と文化を伝える貴重な史跡として整備され、天守閣を持つ城(模擬天守)として復元されています。郷土資料展示室として、騎西地域の発掘調査で発見された多くの出土品や歴史資料が展示されています。
騎西城は城を模した鉄筋コンクリート3階建ての建物です。
1階では、発掘調査で出土した旧石器時代の石器、古墳時代の埴輪、戦国時代の兜などが展示されています。また、酒徳利、蓄音機、古文書などの民俗資料もあります。
2階では、農具や戦争に関する資料、相撲に関する資料などの民俗資料が展示されています。また、昭和10年頃の藤まつりの写真など旧騎西町の写真も展示されています。
3階からは回廊を通じて市街が眺望でき、遠方には富士山、筑波山、日光連山や天候次第で東京スカイツリーなども見ることができます。ただし、強風時には回廊に出ることができません。
騎西城(きさいじょう)は、埼玉県加須市騎西地域(武蔵国埼玉郡)にあった日本の城です。現在も残存する土塁が「騎西城土塁跡」として加須市指定史跡となっています。築城時期は不明ですが、上杉氏配下の太田氏によって築城されたとされています。
騎西城の遺構は東西約400メートル、南北約400メートルの規模を持ち、西端に「本丸」や「二の丸」が南北に配置されています。その東には「天神曲輪」や「馬屋曲輪」があり、さらに東には「丸」と呼ばれる曲輪が2つあります。東端側の丸には大手門が配置されていました。
1987年と1988年の発掘調査で、本城と武家屋敷の間にある堀が全国的に珍しい障子堀であることが明らかになりました。現在、唯一の遺構として高さ約3メートルの土塁が残り、「私市城阯」の石碑が建っています。
現在、騎西城として知られている天守風の建物は、1974年に建設された模擬天守です。実際の騎西城は平城であり、天守は存在しなかったため、この建物は歴史上の騎西城を模したものではありません。鉄筋コンクリート3階建てで、1階は文化財展示室、2階は会議室・控室、3階は和室となっています。
騎西城からは様々な時代の出土品が見つかっています。例えば、茶道具として用いられた瀬戸焼や美濃焼の天目茶碗、桃山陶器などが多数発見されています。また、戦国時代の十六間筋兜がほぼ完全な状態で見つかっており、その持ち主が攻城型武士であったと推定されています。
騎西城の遺跡からは、信仰に関する出土品も見つかっています。例えば、蘇民将来符や護符・呪符・舟形・位牌・銅鋺・数珠などがあり、これらは武士たちが信仰に深い関心を持っていたことを示しています。また、発掘調査により、城内の井戸から四角柱型の蘇民将来符が5体発見されました。
騎西城の武家屋敷跡からは、戦国時代と推定される30数基の墓が確認されています。これらの墓は楕円形や長方形の土葬墓であり、人骨の他、ロクロ整形のかわらけや銭貨、板碑が出土しています。出土した人骨は多くが頭部を北方に向けて埋葬されており、これは当時の風習を反映しています。
信仰に関する出土品として、小型の壺や小杯が発見されており、これらは仏具と考えられています。小型壺は内外面に黒色漆塗りが施されており、口縁部の形状から蓋が存在していたと推測されます。