埼玉県毛呂山町にある出雲伊波比神社は、小高い独立丘陵である臥龍山の上に位置し、古くから人々に崇敬されてきた神社です。特に、古式ゆかしい流鏑馬が有名で、毎年多くの人々が訪れます。現在の本殿は、一間社流造という建築様式が特徴の1528年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
神社に伝わる「臥龍山宮伝記」によれば、景行天皇の53年に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征を成し遂げた際、この地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾を神宝として大己貴命(オオナムチノミコト)を祀ったとされています。また、成務天皇の御代には、武蔵国造の兄多毛比命(エタモヒノミコト)が出雲の天穂日命(アメノホヒノミコト)をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたと伝えられています。
奈良時代の宝亀3年(772年)の大政官符によると、天平勝宝7年(755年)に朝廷から幣帛(神前に供えるもの)を受けた記録があり、出雲伊波比神社が官弊社であったことが明らかにされています。
平安時代には、醍醐天皇の勅命で編さんされた延喜式神名帳において、武蔵国入間郡五座の筆頭にあげられており、古来より格式の高い神社であったことがうかがえます。
鎌倉時代以降、武士の信仰を集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じました。また、大永7年(1527年)の焼失後、翌年には毛呂顕繁が再建しました。現在の本殿はこの再建時のもので、一間社流造、県内最古の神社建築であり、棟札二枚と併せて国の重要文化財に指定されています。
出雲伊波比神社の御祭神は、大己貴神と天穂日命です。
出雲伊波比神社の流鏑馬は、950年以上前から伝承されている伝統行事です。毎年、15歳前後の少年が乗り子となり、祭りの日まで稽古を繰り返し流鏑馬に臨みます。疾走する馬から矢を射る少年の凛々しい姿はもちろん、華やかな衣装も見ごたえがあります。
流鏑馬の舞台、出雲伊波比神社は臥龍山の頂上にあり、本殿と旧八幡社が並んで建っています。江戸時代後期まで、現在の本殿は飛来大明神と呼ばれ、旧八幡社は8月、飛来大明神は9月にそれぞれ流鏑馬が行われていました。今では、旧八幡社の流鏑馬は3月の春の流鏑馬に、飛来大明神の流鏑馬は11月3日の流鏑馬に引き継がれています。
伝承では、康平6年(1063年)、源義家が奥州征伐の凱旋の際、戦勝のお礼に当地を訪れ、八幡社を建て、流鏑馬を奉納したことが始まりとされています。埼玉県内で今日まで伝えられている地域の伝統行事としての流鏑馬は、毛呂山町出雲伊波比神社の流鏑馬のみです。
流鏑馬は中世、源頼朝の家臣だった毛呂氏が治めた領地ともいわれる旧毛呂郷の人々によって行われます。旧毛呂郷は、祭礼区と呼ばれる3つの地区に分かれ、第一祭礼区(毛呂本郷)、第二祭礼区(小田谷と長瀬)、第三祭礼区(岩井と前久保)から1頭ずつ馬が出され、3頭の馬によって流鏑馬が奉納されます。
毎年3月の第2日曜日には、毛呂の流鏑馬の起源である春の流鏑馬が行われます。春の流鏑馬は、毛呂郷の総鎮守である八幡社の流鏑馬で、古くは、付け祭りとして獅子舞も奉納されていました。7歳未満の幼児が乗り子となるのは、「7つうちは神の子」といわれるように、幼児は神様により近い存在と考えられるためです。春の流鏑馬では、その年の秋の流鏑馬のリーダーとなる一の馬によって、静止した馬の上から的に1本だけ矢を射る「願的」という行事が行われます。
秋の流鏑馬では、15歳前後の少年が「乗り子」と呼ばれる射手を務めます。出雲伊波比神社の流鏑馬は、鎌倉武士の稽古、精進、出陣、合戦、凱旋という一連の生活を表しているといわれます。
開催日時(本祭り):毎年11月3日(文化の日)