埼玉県所沢市にある柳瀬荘は、実業家であり茶人でもあった松永安左エ門の旧別荘です。江戸時代後期の民家である「黄林閣」をはじめ、数々の歴史的建造物が残り、国の重要文化財に指定されています。
柳瀬荘は、実業家であり茶人でもあった松永安左エ門(耳庵)の別荘でした。昭和23年(1948年)、松永から東京国立博物館に寄贈されました。中心的な建物である黄林閣は、東京府北多摩郡柳窪村(現在の東京都東久留米市)にあった旧名主・村野家の住宅で、松永が昭和5年(1930年)に譲り受け、現在の地に移築したものです。
敷地内には苔庭や竹林が広がり、黄林閣のほか、近衛文麿が命名した斜月亭などが点在しています。これらの建物は当時の様式を残し、保存されています。建設当時は数奇屋、長屋門、土蔵、観音堂も配置されていました。
柳瀬荘は、昭和23年(1948年)に東京国立博物館に寄贈され、その後諸施設の補修や整備が行われています。敷地面積は17,235平方メートルに及び、江戸時代・天保期の民家の特色をよく示すものとして重要文化財に指定されている「黄林閣(おうりんかく)」、書院造りの「斜月亭」、茶室の「久木庵」などが残されています。当館の庭園にある茶室「春草廬(しゅんそうろ)」も、もとは柳瀬荘にありました。
黄林閣は、実業家として「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門の旧別荘「柳瀬荘」の主要建物です。元々は柳窪(現・東京都東久留米市)の大庄屋であった村野家の住居として、天保15年(1844年)に建てられました。昭和5年(1930年)に松永が譲り受け、現在の場所に移築しました。昭和23年(1948年)には東京国立博物館に寄贈され、現在に至っています。
松永安左エ門は、明治8年(1875年)に長崎県壱岐に生まれました。明治32年に慶応義塾を中退しましたが、福沢諭吉との出会いが彼の人生に大きな影響を与えました。明治42年には福沢桃助とともに福博電気鉄道を設立し、電気事業に着手しました。その後、九州電灯鉄道、東邦電力の経営者として活躍しました。
戦時中に電力国家管理の動きに抵抗して敗れた後、柳瀬荘に隠居し、「耳庵(じあん)」と号して茶道三昧の日々を過ごしました。しかし、昭和24年に電気事業再編審議会会長として復帰し、日本発送電の分割民営化を推進しました。昭和46年(1971年)に97歳で亡くなり、新座市野火止の平林寺に眠っています。
黄林閣は、村野家の建物を昭和5年に現在の地に移築したもので、旧柳窪村の名主であった村野家は代官や役人を接待するための部屋も備えています。松永はこの屋敷で客人を手厚くもてなしました。黄林閣と長屋門は昭和23年に東京国立博物館に寄贈され、週に一度、外観のみ公開されています。
柳瀬荘内には、書院造りの「斜月亭」や、茶室の「久木庵」なども保存されています。これらの建物は、当時の日本建築の美しさと技術を示す貴重な遺構です。
柳瀬荘の庭園には、苔庭や竹林が広がり、季節ごとに異なる風情を楽しむことができます。特に茶室「春草廬」から眺める景色は格別で、訪れる人々に安らぎを提供しています。
松永安左エ門は、日本の電力業界に多大な貢献をしました。電気事業の経営者として、また戦後の電力再編成の指導者として、日本の電力供給の基盤を築き上げました。その強硬な姿勢から「電力の鬼」とも呼ばれましたが、その功績は今なお評価されています。
茶人としても高名な松永安左エ門は、柳瀬荘で多くの茶会を開きました。彼の茶の湯に対する情熱は多くの人々に影響を与え、その活動は近代小田原三茶人の一人として記録されています。
柳瀬荘の建物と庭園は、松永安左エ門の遺志を受け継ぎ、東京国立博物館によって保存されています。これにより、後世に伝えるべき日本の伝統文化や建築技術が守られています。
柳瀬荘は、週に一度外観のみ公開されていますが、その歴史と美しさを楽しむことができます。訪問の際には、黄林閣や斜月亭、久木庵などの建物を見学し、松永安左エ門の遺産に触れてみてください。特に茶室からの景色は一見の価値があります。
柳瀬荘を訪れることで、松永安左エ門の生涯や彼の貢献、そして日本の伝統文化の美しさを深く理解することができるでしょう。