埼玉県川越市にある喜多院は、天台宗の寺院で、川越大師の別名で知られています。山号は星野山(せいやさん)といい、良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀る霊場として知られています。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝には貴重な美術工芸品が数多く存在します。広大な境内は、池や堀を巡らせた景勝地としても知られています。
江戸時代には徳川家との深い関わりを持ち、1612年、徳川家康の信任を得た天海僧正が住職となってから、喜多院は大いに栄えました。1638年に川越大火によって喜多院のほとんどが焼失しましたが、3代将軍家光が江戸城から「家光誕生の間」「春日局化粧の間」を移築しました。日本三大羅漢の一つに数えられる「五百羅漢」が見られます。
1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなどの諸行事をはじめ、四季折々の行楽客で賑わいます。喜多院は小江戸川越七福神めぐりの第3番で大黒天を祀っています。また、境内にある五百羅漢の石像も有名であり、毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中で最も多い約40万人の参詣客が訪れます。
喜多院の歴史は、8世紀(奈良時代)に遡ります。當時、この地は海水で満ちていましたが、仙芳仙人が立ち寄り、その法力によってその水を取り除きました。その地に尊像を安置したことが始まりとされています。平安時代の天長7年(830年)、淳和天皇の勅命を受けた慈覚大師によりその地に寺院が創建され、無量寿寺(のちの喜多院)と名付けられました。
その後、平安時代から勅願所(天皇の命により、鎮護国家・玉体安穏などを祈願する寺院)並びに談義所(学問所)として発展していきました。しかし、平将門の乱や比企の乱によって無量寿寺は衰退します。
鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)、伏見天皇が天台宗の川田谷泉福寺の中興三世の僧侶であった尊海僧正に無量寿寺の再興を命じ、関東天台宗の本山としました。後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺すべての本山たる地位を与えられ、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)を建立しました。しかし、戦国時代の後北条氏と扇谷上杉氏との合戦により、1537年(天文6年)に無量寿寺は再び炎上し、衰退しました。
慶長4年(1599年)、天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めました。川越藩主の酒井忠利は喜多院の再興に尽力し、徳川家からも厚く保護されました。慶長18年(1613年)、徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜り、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められました。寛永15年(1638年)の川越大火で焼失しましたが、翌年には江戸城紅葉山御殿の一部を移築し、現在の客殿、書院、庫裏が残されています。
喜多院には、江戸城から移築された建物が多く現存しています。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失した際、3代将軍徳川家光の命により江戸城の建物が移築されました。客殿には、徳川家光誕生の間とされる部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院や庫裏も移築されています(全て国の重要文化財)。喜多院の北方には江戸末期に建設された川越城本丸御殿も現存しており、江戸時代初期と末期の御殿建築を直接比較することができます。
川越大火の後に移築された客殿は、書院や庫裏と共に江戸城紅葉山(皇居)の別殿となります。12畳半2室、17畳半2室、10畳2室で構成され、天井には彩色による81枚の花模様が描かれています。湯殿と厠(便所)も設けられています。
中央の17畳半の一室には仏間が設けられ、仏事が営めるようになっています。仏間正面の壁には豪華な鳳凰と桐の壁画が描かれています。12畳半の一室が上段の間で、床と違い棚が設けられており、この上段の間は、3代将軍徳川家光がここで生まれたことから、「徳川家光公 誕生の間」と呼ばれています。客殿は国指定重要文化財です。
書院もまた、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したもので、8畳2室、12畳2室から成り、それぞれの床の間が用意され、片方の部屋には脇床も設けられています。一部に中2階が設けられています。これらの部屋は、徳川家光の乳母である春日局が使用していた部屋だったことから、「春日局化粧の間」と呼ばれています。書院も国指定重要文化財です。
慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀る堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ばれています。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りしています。慈恵堂内には、正安2年(1300年)に造られた銅鐘(国指定重要文化財)があり、年に一度、除夜の鐘として撞かれています。
庫裏は、客殿と書院に渡り廊下でつながれており、現在は拝観の方々の入口となっています。江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したもので、国指定重要文化財です。
慈眼堂は、慈眼大師天海を祀る御堂で、小高い岡の上に位置し、この丘は7世紀初頭の古墳を利用しています。昭和30年度に部分修理が行われています。慈眼堂も国指定重要文化財です。
山門は、四脚門(しきゃくもん)の形式で、4本の柱の上に屋根が乗ります。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。喜多院では現存する最古の建物で、国指定重要文化財です。
正安二年(1300年)に作られた銅鐘は、慈恵堂内に懸けられており、高さ90cm、口径45cmと小形ですが、鎌倉時代特有の重厚さを示しながらも均整のとれた美しい姿を見せています。国指定重要文化財です。
鐘楼門は、2階建てで階上に梵鐘(ぼんしょう)を吊るす構造で、入母屋造りの本瓦葺です。階上の銅鐘には元禄15年(1702年)の銘があります。国指定重要文化財です。
番所は、山門右側に接して建てられており、徳川江戸中期から江戸末期に建立されました。天保12年(1841年)の喜多院境内図では、山門より後方内部に描かれていましたが、その後、現在のように山門に接するように移されたものと考えられます。県指定有形文化財です。
多宝塔は、寛永16年(1639年)に山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため移築されましたが、移築に際して大幅に改造されました。昭和48年(1973年)に現在地に移し、解体修理を実施して復元されました。総高13m、方三間の多宝塔で、本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根が載ります。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。県指定有形文化財です。
仙波東照宮は、元和2年(1616年)に駿府城で徳川家康が亡くなった際に一旦久能山に葬られ、元和3年(1617年)に日光山に改葬される途中、3月23日から26日までの4日間、遺骸を喜多院に留めて大法要が営まれました。そのため、境内に東照宮が祀られ、寛永10年(1633年)には立派な社殿が造営されました。寛永15年(1638年)の川越大火により類焼したため直ちに再建に着手し、寛永17年(1640年)に完成したものが現在の社殿です。国指定重要文化財です。
日枝神社は、喜多院の山門の前方に位置しています。山王一実神道の関係から、喜多院の草創時代から境内に祀られており、近江日枝神社を勧請したものとされています。本殿は三間社流れ造りで、銅版葺、朱漆塗りの華やかな様式を持ち、室町末期から江戸初期の様式をよく残しています。国指定重要文化財です。
喜多院の五百羅漢は、日本三大羅漢の一つに数えられ、特に観光名所として人気があります。天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立され、十大弟子、十六羅漢を含めて533体、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせて全部で538体が鎮座しています。
すべての石仏が異なる表情とポーズを持っており、笑顔、涙、怒り、ヒソヒソ話など、さまざまな表情をした羅漢様が揃っています。深夜に羅漢様の頭を撫でると、1つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているとの言い伝えがあります。
多宝塔、慈眼堂、山門、鐘楼門、番所なども県指定有形文化財として 指定されています。
喜多院境内には小さな博物館もあり、貴重な仏教美術品や歴史的資料が展示されています。
慈恵堂の裏手には、石の柵に囲まれた大きな五輪塔が並んでいます。ここは1767年(明和4年)から1866年(慶応2年)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓があります。松平大和守家は徳川家康の次男、結城秀康の子直基を藩祖とし、川越藩主であった7代、約100年の間に川越で亡くなった5人の藩主(朝矩、直恒、直温、斉典、直候)が葬られています。なお、墓石が崩れる恐れがあるため、内部に入ることは禁止されています。
喜多院には多くの重要文化財が存在します。
喜多院の通称「川越のお大師さま」は、平安時代の僧侶「慈恵大師良源」(じえだいしりょうげん)のことを指します。慈恵大師は912年(延喜12年)に生まれ、985年(永観3年)に没しました。比叡山の復興、衆僧の指導、修学の奨励、規範の確立などに尽力し、966年(康保3年)に55歳で第18代天台座主に就任しました。1月3日に亡くなったことから、「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれています。
慈恵大師の母が観音様に祈願して大師を授かったことから、幼名を「観音丸」といい、後に観音さまの化身・生まれ変わりと信仰されました。また、円融天皇の時代に修法中の慈恵大師の姿が不動明王に見えたと伝えられており、不動明王の化身とも云われています。
このように、慈恵大師良源は一人の高僧としてだけでなく、仏様(観音様)として信仰されており、喜多院の本堂(慈恵大師堂)では中央 に慈恵大師良源の尊像を如意輪観音として祀り、左右に不動明王を祀っています。なお、この喜多院の本堂は、座って耳を澄ますと何処からともなく波の音が聞こえるという言い伝えから「潮音殿」とも呼ばれています。