埼玉県嵐山町にある武蔵嵐山渓谷は、岩畳と清流が織りなす美しい景観で知られる、豊かな自然を誇る埼玉県を代表する景勝地の一つです。特に大平山から伸びた細原と呼ばれる場所では、流路が大きく180度転じて半島状の独特な地形を形成しています。
この地形は渓谷と周囲の赤松林の美しい景観を作り出しており、訪れる人々を魅了しています。景観が京都の「嵐山」に似ていることから、日本初の林学博士である本多静六博士が「これは武蔵国の嵐山だ」と名付けました。これが嵐山町という町名の由来となりました。
初夏には新緑と川の流れる音、鳥のさえずりが響き、都心から1時間とは思えない美しい景色を楽しむことができます。秋には水面に映る彩りと燃えるような紅葉が見どころです。紅葉の見ごろは例年11月中旬から12月上旬です。
武蔵嵐山渓谷の地形は、主に結晶片岩という薄くはがれやすい岩石で構成されています。特に多く見られるのは緑泥石片岩(りょくでいせきへんがん)で、地元では青石(あおいし)とも呼ばれるやや緑色がかった岩石です。この岩石は板状に剥離しやすく、石碑や墓石に多く利用されています。嵐山町周辺では多くの中世期の板石塔婆が確認されており、ほとんどがこの緑泥石片岩で作られています。
また、紅れん石片岩(こうれんせきへんがん)という赤味がかった岩石も場所によっては見られます。この岩石は埼玉県の長瀞で最初に発見され、地質学的に埼玉県を世界的に有名にしました。渓流の岩畳には甌穴(おうけつ)やポットホールと呼ばれる丸い穴が見られます。これは水流と小さな石の回転によって岩の表面にできたくぼみで、時には人が入れるほどの大きさに成長することもあります。
武蔵嵐山渓谷にはさまざまな植物が生育しています。春先にはユキヤナギが白い房状の花を咲かせ、梅雨の頃にはヒメウツギなどのウツギ類が白い花を咲かせます。大きな樹木ではケヤキが多く見られ、紅葉の時期にはモミジやヤマザクラと共に見事な色を見せてくれます。かつてはアカマツも多く見られましたが、松枯れにより大きな樹はほとんどなくなってしまいました。
武蔵嵐山渓谷には多くの動物も生息しています。特にヤマセミが生息しており、水面を軽やかに飛ぶ姿を見ることができますが、警戒心が強く人目に触れることはほとんどありません。冬にはオシドリがつがいでやって来ることもあります。また、周辺の森にはキツツキ類も多く、コゲラやアオゲラが見られます。上空にはオオタカが飛来することもあります。
は虫類ではタカチホヘビやジムグリなどが、両生類では早春の水溜りにトウキョウサンショウウオの卵塊が見られ、河川にはカジカガエルも多く生息しています。魚類ではかつてカジカやアユが見られましたが、今ではほとんど目にすることがなくなりました。
昆虫類ではトンボの仲間が多く、清流に住むアオサナエやホンサナエ、アオハダトンボなどが見られます。カブト虫の仲間ではハセガワセスジダルマガムシやナカネセスジダルマガムシ、マスダチビヒラタドロムシなど、埼玉県から初めて見つかった種類も多く生息しています。蝶の仲間ではオオムラサキをはじめ、ミヤマカラスアゲハやアオバセセリ、メスグロヒョウモンなどが生息しています。
昭和のはじめに本多静六博士によって名付けられた「武蔵嵐山」は、観光地として非常に賑わいました。渓谷周辺には料理旅館「松月楼」があり、多くの人々が訪れました。東武東上線の菅谷駅も昭和11年には「武蔵嵐山駅」に改名され、駅から観光客の長い列ができたほどです。
昭和14年6月には、現代短歌の道を開いた与謝野晶子が当地を訪れ、「比企の渓」29首を詠みました。平成10年には与謝野晶子の歌碑が建立されました。歌碑には比企の渓26首目の歌「槻の川 赤柄の傘をさす松の 立ち並びたる 山のしののめ」が刻まれています。
戦後、「松月楼」は経営者が変わり「一平荘」と改名されましたが、最終的には閉店してしまいました。しかし、時代と共に景勝地を訪れる人々は増え続け、休日には槻川橋下の嵐山渓谷バーベキュー場には多くの人々が訪れます。駐車場にひしめく車の姿は、かつての観光客の行列を思い起こさせます。