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大沢家住宅(小松屋)

(おおさわけ じゅうたく)

200年の時を超えて、川越の歴史を語る

埼玉県川越市にある大沢家住宅は、江戸時代から続く蔵造りの町家です。明治26年(1893年)の川越大火を奇跡的に免れたこの建物は、川越の街並みが形成される上で重要な役割を果たしました。現存する関東地方最古の蔵造りでもあり、国の重要文化財に指定されています。

歴史

この住宅は、寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門によって建てられた蔵造りの店舗建築です。川越大火で例外的に焼失を免れたことから、川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となりました。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行われ、創建当時の姿に甦りました。

建築の特徴

建物は間口6間、奥行4間半で、切妻造り平入り、桟瓦葺きです。川越の重厚な蔵造りの中ではシンプルな町屋形式であり、総欅作りですが前面の人見の柱のみ松になっています(客を待つの意味)。

1階の前面には下屋庇を出し、格子戸や土戸があり、土間には防火用の用心戸まで備えています。2階の前面は漆喰で塗り固めた土格子(どごうし)を一番外側に、漆喰戸、木戸、障子と三重の窓になっています。防火扉付きの小窓もあり、2階への箱階段や、ゆるく波打つ階段側面の壁は見事です。

壁面の厚さは30cm、縦と横に5cmの丸竹を使い、あけびのつるで結束してあります。内壁は孤を成している耐震構造です。床の間は天井から漆喰が下がっている「吊り漆喰」です。大黒柱は江戸建築でも最上の木材の1つで目を引きます。

蔵造りの影響

大沢家住宅は、呉服太物商・西村半右衛門(屋号「近江屋」)が江戸時代の中期に店舗蔵として建てたもので、間口6間、奥行4間の規模の大きな町家です。明治26年(1893年)の大火に焼け残った貴重な建築であり、棟木に打ち付けてある祈祷札及び神棚の墨書から寛政4年(1792年)に建設されたことがわかっています。

この建物は、切妻造桟瓦葺屋根の総二階で、前面に奥行4尺の下屋庇が付いています。軒は出桁で支えられており、明治大火後の店蔵と異なり軒蛇腹はなく、2階正面の窓も土塗りの親子格子で構成されており、土蔵造というよりも塗家造の町家といえます。

建築の詳細

建築当初は、庇正面だけではなく南面まで廻っていましたが、現在は撤去されています。正面の庇は中央間が開放され、左右脇間が腰壁で創建時は庇柱内側に防火戸を立てる構えでした。1階は手前半間通りを土間とし、奥を床上部分とする一室空間で、背面側中央に間口3間、奥行半間の神棚を設け、2階へは東南隅の箱階段で登りました。

1階の戸締まりは、庇との境に入った摺揚戸で行われ、背面は観音開きの土扉が神棚の両脇に2箇所設けられ、火災の際には住居部分と完全に分離できるようになっています。2階は5室からなり、棟通りで二つに分かれ、正面北側の14畳間には床の間と地袋付きの床脇が備えられています。

川越における蔵造りの影響

明治26年に川越大火が起こり、川越町の1/3が焼失し建物にも相当な被害が出ましたが、伝統的な工法で建てられた大沢家住宅は、明治大火後に毅然とした姿で川越商人たちの目前に現れました。土蔵造建築の防火性を実証させた町家であり、川越の商人は防火、耐震構造の重要性を認識するようになり、倉庫としての蔵でなく、店舗を蔵造りとした商家を建てるようになりました。

川越における土蔵造の町並みが誕生するきっかけを作った貴重な建築です。蔵造りの家屋は、江戸時代の町屋から発達し、最盛期には川越に100軒以上の建物があり、耐火建築として防火性があり、また耐震構造も持ち合わせていました。川越に蔵造りの建物が多く建つようになったのは、この大沢家住宅がきっかけと言われています。

建物の構造と機能

大沢家住宅は、木造で間口6間、奥行4間半で、屋根は切妻造り平入りで桟瓦葺きです。1階は31畳の畳敷きで、正面には3間の神棚が設けられており、あまり例を見ない構造になっています。川越の明治大火に焼け残った江戸時代の土蔵造町屋で、建物は総二階で、一階を「みせ」、二階を座敷などに使っています。意匠は地味ですが、質や保存は比較的良く、川越土蔵造中最古の遺例です。

築200年の歴史

国指定の重要文化財である大沢家住宅は、多くの蔵造りの建物が立ち並ぶ一番街で、最も古い蔵造りの建物であり、築200年を迎えます。1階は民芸品やお土産品を扱っているお店として利用されています。

Information

名称
大沢家住宅(小松屋)
(おおさわけ じゅうたく)

川越・東松山

埼玉県