「一番街」と呼ばれる町並みには、蔵造りの建物が趣を添えて立ち並んでいます。蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸時代の町家形式として発展しました。
城下町の趣を色濃く残し、蔵造りの町並みが特徴で「小江戸」として知られ、現在の東京では見ることのできない江戸の面影がそのまま残っています。
その風貌は、大きな鬼瓦の屋根や黒く塗られた壁、分厚い観音開きの扉など、まるでタイムスリップしたかのような感覚を覚えさせます。
一軒一軒が異なる造りをしており、それぞれが個性を引き立てながら、凛とした風格を漂わせています。
中でも最も古い建物は、寛政4年(1792年)に建てられた大沢家住宅であり、かつて呉服太物の商売を営んでいました。
川越町(当時)の3分の1が焼失した明治26年(1893年)の川越大火の際にも焼け残り、川越商人たちが蔵造りの建物を建てるきっかけとなった建築物の一つです。国の重要文化財に指定されています。
江戸時代には、川越藩主 松平信綱の計画によって、店が向かい合う形の家並みが整備されました。しかし、大火のたびに町は被害を受けたため、幕府はかわらぶきの使用を奨励し、火事に強い建物として土蔵造りが流行しました。これによって商業が盛んであった川越でも、蔵造りの商家が建てられるようになりました。
現在の蔵造りの多くは、川越大火の後に建てられたものであり、現在でも30棟以上が残っています。
大正12年以降、関東大震災や戦災によって東京の蔵造りは姿を消しましたが、川越では江戸時代の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として認識され、平成11年12月1日に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
また、旧埼玉りそな銀行川越支店の古い洋館は、大正7年に建築された貴重な建物です。
最近では、新しい建築物も景観を損なわないように配慮され、新旧の建築物が調和した街づくりが進んでいます。
シンボルとなっているのが「時の鐘」です。最初の鐘は寛永年間(1624年〜1644年)に建てられましたが、現在の鐘楼は1893年の「川越大火」の翌年に再建されたものです。この鐘楼は3層構造で高さは約16メートルです。現在では、午前6時・正午・午後3時・午後6時の4回、鐘の音が響き渡っています。
また、「菓子屋横町」も川越の魅力的なスポットです。ここでは、数十軒の菓子屋が連なり、昔懐かしい駄菓子やあめ、せんべいなどが販売されています。延長は約450メートルで、散策しながら懐かしい味覚を楽しむことができます。
この地域は平成11年12月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、平成19年1月には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれました。
川越一番街は、蔵造りの街並みが残る場所です。福島県の喜多方市や岡山県の倉敷市と共に、「日本三大蔵の町」として知られています。ここは川越城の西大手門跡の近くに位置し、かつては高札場があった「札の辻」を中心とした地域で、商人たちが暮らしていた上五ヶ町が広がっていました。
1893年(明治26年)の川越大火では町の3分の1が焼失しましたが、その中で江戸時代の蔵造り建築が残ったため、その後の商家たちも蔵造りを模倣しました。かつては200棟以上の蔵造りの町屋が立ち並び、川越の見世蔵の大きな特徴として黒漆喰が使われていました。
現在、川越一番街では多くの資料館やギャラリー、個性的なカフェなどが利用されています。「山崎美術館」には川越藩士であった橋本雅邦のコレクションが展示されており、「服部民俗資料館」や「蘭山記念美術館」(船津蘭山の作品が展示されています)、「松下紀久雄むかし絵美術館」などもあります。
また、関東地方で最も古い蔵造りとされる「大沢家住宅」は、1792年(寛政4年)に豪商の西村半右衛門によって建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。
「陶舗やま」では、店舗と蔵をつなぐトロッコがあり、NHKの連続テレビ小説「つばさ」の舞台となった「甘玉堂」としても知られています。夜には川越一番街がライトアップされることもあります。
川越市(かわごえし)は江戸時代には川越藩の城下町として繁栄し、「小江戸」としても知られていました。この街には城跡、神社、寺院、旧跡、歴史的建造物が数多くあり、関東地方では神奈川県の鎌倉市、栃木県の日光市に次ぐ文化財の数を誇っています。
また、歴史まちづくり法により国から「歴史都市」として認定されており、埼玉県内では唯一の認定地です。戦災や災害を免れたため、歴史的な街並みが残っており、年間約700万人以上もの観光客が訪れる観光都市となっています。多くの海外の旅行ガイドブックでも紹介され、最近では外国人観光客も多く訪れます。
川越藩は川越城を擁し、江戸幕府の北の守りとして重要な役割を果たしました。藩主たちは酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保など、大老や老中といった重要な地位にある人々や越前松平家の一族などが配されました。
そのため、川越は江戸時代から商工業や学問が盛んな城下町として栄え、今でも多くの学校が存在する文教都市です。
川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注ぎました。例えば「知恵伊豆」と称された松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じて玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修などを行いました。また、行政手腕に秀でた柳沢吉保は川越に荻生徂徠を招聘し、筆頭家老の曽根権太夫に命じて三富新田の開拓などを行いました。
川越藩領の狭山丘陵では、河越茶(狭山茶)の栽培が進められ、武蔵野の開墾地ではサツマイモの栽培が盛んになりました。狭山茶は、高林謙三が開発した「高林式製茶機械」のおかげで隆盛を迎え、赤沢仁兵衛が考案した「赤沢式甘藷栽培法」によりサツマイモの収穫量が大幅に増加しました。寛政年間には焼き芋が江戸で大流行し、新河岸川や入間川の舟運で江戸に運ばれたサツマイモは「川越芋」と呼ばれ、その美味しさと「栗よりうまい十三里」という言葉で評判となりました。これにより川越は「イモの町」としてのイメージも確立しました。川越藩領や周辺の秩父などは「江戸の台所」として物資の供給地として繁栄しました。また、幕末には川越藩領の上野国前橋で生糸業が興り、その輸出で川越商人たちは富を築きました。
サツマイモは江戸時代からの特産品で、川越で飢饉時の非常食から美味しい商品作物へと育て上げられました。現在は川越芋の生産量は減少していますが、川越はサツマイモの加工基地として知られています。川越芋は火が通りやすく、芋きんとんなどの加工に適した品種であり、芋せんべい、芋羊羹、芋松葉、芋納豆、芋シュー、二色芋ババロア、芋プリンなど、さまざまな美味しい商品があります。川越の「芋菓子」は草加煎餅や五家宝とともに「埼玉三大銘菓」として親しまれています。黄色い「芋ソフトクリーム」も川越が発祥です。イモ菓子だけでなく、川越ではさまざまなイモ料理も名物となっており、「サツマイモを食べるなら川越」と言われるほど豊富な料理が楽しめます。芋うどんや芋おこわは定番であり、「えぷろん亭」や「源氏家」などではオリジナルのサツマイモ料理も提供されています。
西武新宿線「本川越駅」下車 東武バス「一番街」下車すぐ
東武東上線・JR川越線「川越駅」下車 東武バス「一番街」下車すぐ