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養寿院

(ようじゅいん)

文化財を多く有した河越氏の当主ゆかりの寺院

埼玉県川越市にある養寿院は、山号は青龍山と称され、鎌倉時代から続く由緒ある寺院です。源義経ゆかりの寺としても知られ、歴史的な文化財を数多く所蔵しています。本稿では、養寿院の歴史、文化財、そして周辺との関わりについて詳しく解説します。

歴史

養寿院の創建

寛元二年(1244年)、河越氏の当主である河越経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開山した寺です。当初は密教の道場として開かれましたが、天文4年(1535年)に天台宗から曹洞宗に改宗されました。徳川家康が関東に入国した際には、家康から御朱印十石を賜り、鷹狩りの際にも立ち寄ったと伝えられています。

河越氏との関わり

河越氏は平安末期にこの地域を領地とし、養寿院を建立しました。河越氏の館跡には源義経とその正妻の位牌の写しが安置されており、その勢力の大きさを物語っています。

重要な文化財

本堂には、河越氏が京都東山新日吉山王社に寄進した文応元年(1260年)銘の銅鐘(国の重要文化財)が保存されています。この銅鐘には「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」と「河肥」の文字が刻まれており、歴史的に非常に貴重なものです。

養寿院の構造と文化財

本堂と仏像

本堂の本尊は釈迦牟尼如来(華厳の釈迦如来)で、脇侍に観世音菩薩・弥勒菩薩を配し、「三世佛」の扁額が掲げられています。これにより、養寿院は曹洞宗の禅寺としての顔を持ちながらも、仏教の広い教えを反映しています。

墓地と墓碑

寺の墓地には河越太郎重頼の墓があり、また岩手県の妙好山雲際寺にある源義経と重頼の娘である正室郷御前の位牌の写しが安置されています。さらに、江戸時代に河越藩主・秋元喬知に仕えた名家老・岩田彦助の墓もここにあります。

河越氏の歴史

河越氏は、坂東平八氏の一つ秩父氏の出身であり、重頼の祖父重隆の時代に川越に進出し、河越氏を名乗りました。重頼の妻は源頼朝の乳母であった比企禅尼の娘であり、その関係から頼朝を助け、鎌倉幕府の樹立に貢献しました。しかし、頼朝と義経の対立により、義経の舅である重頼は領地を没収され、嫡男の重房とともに誅殺されました。

文化財としての銅鐘

養寿院に保存されている文応の銅鐘(国指定重要文化財)は、「武蔵国河肥庄新日吉山王宮奉鋳推鐘一口長三尺五寸大檀那平朝臣経重大勧進阿闍利圓慶文応元年大歳庚申十一月廿二日鋳物氏丹治久友大江真重」の銘文があり、鋳物師丹治久友が鎌倉大仏の鋳造に参加した名工であることが記されています。この銅鐘に刻まれた”河肥”の文字は川越の歴史上非常に価値の高いものです。

岩田彦助儒葬墓(市指定史跡)

岩田彦助は、川越城主秋元但馬守の家老であり、「秋元に過ぎたるものが二つあり、無の字の槍と岩田彦助」と言われるほどの人物でした。その墓も養寿院にあり、市指定史跡となっています。

堀河夜討図屏風(市指定文化財)

養寿院には、江戸時代初期の川越城主酒井重忠侯が寄進した「堀河夜討図屏風」が伝えられています。これは、重忠侯が夜ごとに聞こえる矢叫びや蹄の音に悩まされ、易者に占ってもらったところ、城内の戦争の図が原因とされ、その屏風画を養寿院に寄進することで安眠が得られたという逸話に基づくものです。現在でも養寿院に秘蔵されており、住吉具慶の筆と伝えられています。

養寿院の現状

養寿院は、徳川家康をはじめとする歴代川越城主の信仰を集め、多くの人材を輩出した曹洞宗専門僧堂(修行道場)としても栄えました。現在でもその歴史と伝統を受け継ぎ、多くの参拝者や観光客を迎えています。

訪問者への案内

養寿院は、その歴史的背景と文化財の多さから、訪問者にとって興味深い場所です。寺院内の本堂や墓地、銅鐘、屏風画などを見学することで、日本の歴史と文化に触れる貴重な体験ができます。

特に、河越氏に関する展示や説明は、川越市の地名の由来やこの地域の歴史を理解する上で重要です。訪問の際には、ぜひこれらの文化財をじっくりとご覧いただき、養寿院の歴史と伝統に思いを馳せてみてください。

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