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三峯神社

(みつみね じんじゃ)

春日造りの本殿が重厚な雰囲気を放つ神社

三峯神社は、日本武尊が東征の際に建てられたと伝えられており、かつては山伏の修行道場として栄えました。現在でも「三峰講」の信仰の対象として、多くの人々から崇敬を集めています。

パワースポットとしての三峯神社

最近ではパワースポットとしても注目を集めており、特に縁結びの神社として知られています。この神社は秩父神社・宝登山神社とともに「秩父三社」の一つであり、拝殿の手前には珍しい「三ツ鳥居」があります。

狼を守護神とする特徴

三峯神社では狼を守護神としており、狛犬の代わりに神社の様々な場所に狼の像が鎮座しています。これは他の神社にはない特異な特徴で、多くの参拝者がこの狼の像に興味を持っています。

重要な建造物

1661年(寛文元年)に建立された本殿は、一間社春日造りの様式であり、境内には古い歴史を感じさせる重厚な雰囲気が漂っています。1800年(寛政12年)に建てられた拝殿は権現造りのスタイルを持ち、立派な姿で存在感を放っています。

主要な祭事とその様子

毎年の元旦祈願祭や節分祭では、多くの参詣者でにぎわいを見せます。人々が訪れ、祈りを捧げる様子は、活気に満ちています。

三峯神社の伝承と由来

伝承によれば、景行天皇の時代に日本武尊が東征の途中、現在の三峯神社のある山に登って、伊弉諾尊と伊弉册尊の国造りを偲んで神社を創建したとされています。景行天皇が東国を巡る際、天皇はこの地の周囲にある白岩山、妙法ヶ岳、雲取山の三つの山を賞賛し、「三峯宮」という社名を与えたと伝えられています。

役小角と空海の縁起

また、役小角が流罪となった後、三峰山で修行をし、空海が観音像を安置したという縁起も伝えられています。「三峰」という地名と「熊野」という地名の類似から、三峰の開山には熊野修験が深く関わっていることがうかがえます。

中世以降の三峯神社

中世以降、三峯山は日光系の修験道場として知られ、関東地方の武将たちからも崇敬を受けました。建久6年(1195年)、秩父を支配していた畠山重忠が願文を奉納した際、霊験が現れたとされ、それ以来、薄郷(現在の小鹿野町両神周辺)から甲斐地方までの広い土地が寄進されました。このため、三峯山は守護の支配を受けない聖地となり、東国の武士たちの信仰を集めて繁栄しました。

正平7年の衰退と復興

しかし、正平7年(1352年)、新田義興や義宗らが足利氏に敗れ、彼らが三峯山に身を潜めたために社領が奪われ、衰退してしまいました。その後、文亀年間(1501年-1504年)には修験者の月観道満が廃寺となった三峯山を見つけ、30年以上にわたり復興を勧め、天文2年(1533年)に堂舎が再建されました。

聖護院との関係

その後、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴え、聖護院から「大権現」という称号を授けられました。これにより、三峯山は関東地方で聖護院派天台修験の総本山として隆盛を極めました。本堂は「観音院高雲寺」と呼ばれ、また「三峯大権現」とも称されました。

江戸時代の三峯神社

江戸時代に入ると、秩父の山々に生息する狼は、農作物を守る存在として、猪などからの眷族や神使として崇められるようになりました。人々は狼を「お犬さま」と呼び、彼らが盗難や災難から守る神と解釈しました。そのため、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行しました。

修験者たちの活動と信仰の広まり

修験者たちは当社の神の存在を広めるために奔走し、関東地方や東北地方などで「三峯講」と呼ばれる信仰団体が結成され、当社への参詣を行うようになりました。伊奈忠福の時代には、伊奈氏(もともとは関東郡代の一族でしたが、家督争いにより一時的に名跡を奪われ、後に秩父郡の小普請となりました)が土地や山林を寺に寄進し、村人たちに信仰を広めることで繁栄しました。

明治時代の変遷

しかし、明治時代の神仏分離政策により、寺院は廃され、「三峯神社」と改称されました。明治16年(1883年)には近代社格制度において県社に列格しました。明治時代の中頃には、社務所には600人が宿泊できる施設があり、訪れる人々には自家製の料理や酒が提供されていたと言われています。

近代の三峯神社

明治時代の中頃には、社務所には600人が宿泊できる施設があり、訪れる人々には自家製の料理や酒が提供されていたと言われています。また、大正時代末期には秩父宮が参拝し、全国的に信徒が増えたため、講社の数も増加しました。昭和14年(1939年)には、麓から参道に沿って三峰ロープウェイが山頂まで敷設されました(2007年廃止)。平成16年(2004年)には社殿を修復しました。

境内の見どころ

三峯神社の境内には、多くの歴史的建造物や見どころがあります。

本殿

本殿は1661年(寛文元年)に建立され、一間社春日造りの様式で、境内には古い歴史を感じさせる重厚な雰囲気が漂っています。本殿は再建される前の旧本殿は、境内の東照宮の上舎(うわや)として現存し、当社に残る唯一の貴重な室町時代の建造物です。

拝殿

1800年(寛政12年)に建てられた拝殿は権現造りのスタイルを持ち、立派な姿で存在感を放っています。正面5間、側面3間、入母屋造の銅板葺。正面向背1間、背面張出2間。内部は一面格天井を張っています。

随身門

随身門は寛政4年(1792年)に再建されました。大工棟梁は妻沼の林兵庫正信で、屋根形式は切妻造の銅板葺、軒唐破風が付く県内有数の大規模な八脚門です。

国常立神社

国常立神社は正保3年(1646年)に再建され、宝暦11年(1761年)に再々建されました。現在の社殿は宝暦期のものであり、祭神は国常立命(くにのとこたちのみこと)です。

日本武神社

日本武神社は嘉永6年(1853年)に再建されました。かつての役行者堂を神社としたもので、向拝を持つ妻入社殿の典型的な構造を持っています。

手水舎

手水舎は嘉永6年(1853年)に建立され、屋根は切妻造両軒唐破風です。四面に極彩色の彫刻をあしらい、社殿全体の配置の中で重要な位置を占めています。

秩父宮台臨記念館

大正14年(1925年)、秩父宮雍仁親王の三峯神社参拝を機に新設された複数の施設の一つで、昭和6年(1931年)に竣工しました。木造平屋造の寄棟造(一部方形屋根)、鉄板瓦棒葺で、神社所有の建物でありながら宮殿建築の性格を有します。設計者の関根要太郎(1889~1959)は秩父の生まれで、台臨記念館は秩父地域に現存する唯一の関根作品です。

三ツ鳥居

三峯神社の拝殿の手前には珍しい三ツ鳥居があります。これは三つの鳥居が重なり合った特異な形状をしており、三峯神社の象徴的な存在です。

自然環境とハイキング

三峯神社の周辺には豊かな自然環境が広がっています。神社は奥秩父の山々に囲まれており、四季折々の美しい風景を楽しむことができます。春には桜やツツジが咲き誇り、夏には新緑が目に鮮やかです。秋には紅葉が山を彩り、冬には雪景色が広がります。

この地域はハイキングや登山にも適しており、多くのトレイルが整備されています。特に三峯神社から妙法ヶ岳や雲取山へのハイキングルートは人気があります。これらの山々への道は初心者から上級者まで楽しめるコースがあり、登山の途中で絶景を楽しむことができます。

アクセスと宿泊施設

三峯神社へのアクセスは、電車とバスを利用する方法が一般的です。最寄りの駅は西武秩父駅で、そこからバスで約75分の距離にあります。車でのアクセスも可能で、神社には駐車場が整備されています。

宿泊施設としては、神社周辺にいくつかの宿坊や旅館があります。これらの宿泊施設では、神社への参拝者が宿泊しやすい環境が整っています。また、三峯神社自体にも宿坊があり、ここでは宿泊しながら神社の静かな雰囲気を楽しむことができます。

御朱印とお土産

三峯神社では、参拝の記念として御朱印を受け取ることができます。御朱印は社務所で受け付けており、神社のシンボルである狼の印が押されています。この御朱印は参拝の証として多くの人々に人気があります。

また、神社の社務所ではさまざまなお土産が販売されています。神社のシンボルである狼をあしらったお守りや絵馬、神社の歴史や文化に関する書籍などが揃っています。特に人気があるのは、狼の護符や縁起物です。これらは災難除けや家内安全のために多くの人々に購入されています。

まとめ

三峯神社は、その古い歴史と美しい自然環境に囲まれた神社として、多くの人々に愛されています。神社の境内には歴史的な建造物や美しい建築があり、訪れる人々を魅了します。また、周辺の自然環境やハイキングコースも魅力の一つであり、四季折々の風景を楽しむことができます。参拝者は神社で心の平穏を求めると同時に、その歴史や文化に触れることができます。ぜひ一度、三峯神社を訪れて、その魅力を体感してみてください。

Information

名称
三峯神社
(みつみね じんじゃ)
リンク
公式サイト
住所
埼玉県秩父市三峰298-1
電話番号
0494-55-0241
営業時間

7:00~17:00

定休日

無休

料金

無料

駐車場
市営駐車場を利用 240台 有料
アクセス

西武秩父線西武「秩父」駅より西武観光バス急行「三峯神社」行きで1時間15分、終点下車、徒歩10分

関越自動車道「花園」ICより国道140号を経由し、県道278号を三峰山方面へ車で70km

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